2014年10月5日日曜日

アスー・マシンにかけた執念:マレシャム・チンタキンディ

過酷なサリー織り


マレシャム・チンタキンディ(Mallesham Chintakindi)は、古くから絹のサリーの名産地として知られる町・ポチャンパリー(Pochampally)でサリー織りの家に生まれ育った。10才から家業を手伝い始め、そのかたわら学校へ通った。


サリー織りの工程のうち、「アスー(Asu)」の作業は伝統的に女性が担当してきた。
アスーの工程ではサリー1枚あたり、片手を1メートル幅で9000回往復させることになる。



日に8時間この作業を続けてきた母親はある日、眼に涙をためてマレシャムに言った。
「もう限界だ。この仕事は続けられないよ。肩の痛みは日に日にひどくなる。おまえがいつかもらうお嫁にも、手織りの仕事はさせたくない。」

その時からマレシャムは、自分に何ができるか考え始めた。
そうして彼が思いついたのは、アスーの工程を機械化するというアイデアだった。
しかしこのアイデアは周りの友人からも家族からも笑われるばかりだった。

それまで誰もそんなことに挑戦したことがなかった上に、マレシャムは高等教育を受けていなかったからだ。
それでも20才の時、マレシャムはこのアスー・マシンの開発に着手した。
昼はサリー織りの仕事、夜は開発という日々が始まった。



失敗の連続


まずアスーの工程を5つのパートに分けた。パートごとに、ふさわしい働きをしそうな部品を組み立て、木枠にはめ込んだ。
まったく技術的知識がなかったため、的外れな部品を買ってしまうことも多かった。
また働いて部品を買うお金を貯めては、新しい部品を買った。
試行錯誤の日々が続いた。

そんな日々が4年続き、マレシャムは結婚した。
結婚から1年間、アスー・マシンの開発は休まざるを得なかったが、その間もマレシャムの構想は着々と固まっていた。
妻と相談し、結納金で部品を買い、5つのパートのうち3つを完成までこぎ着けた。
それから、昼間の織りの仕事もやめて、借金をして開発に没頭するようになった。


やがて、資金繰りにも、開発にも行き詰まるときが来た。
この頃には、返済の催促に、貸し主が家を繰り返し訪れるようになり、家族は嫌気がさしていた。
父親はマレシャムに言った。
「もう終わりにしなさい。おまえの狂った趣味のせいで母さんや嫁さんが飢えるのを見たくはない。」


執念の日々


マレシャムは納得がいかず、ハイデラバード(Hyderabad)の街に出た。
街で日雇いの電気工事をやって稼ぎ、1年間家に送金を続けた。
1年後、未完のアスー・マシンをハイデラバードの自室に持ち込んだ。
パートタイムで仕事を増やし、仕送りして余った分の金で部品を買っては試す。
あと1つの動作が実現できれば完成するというところで、開発は袋小路に入ってしまった。
どんな機構で、どんな部品を使えばいいのか、まるきり見当がつかなかった。

ある日、機械店での仕事があった。
店の機械をひとつずつじっくりと観察していたマレシャムは、ある機械に、自分の実現したかったのと全く同じ動作をしている部分があることに気づいた。
すぐに作業場に戻り、機構を組み立ててマシンに取り付けてみた。
祈りを口にしながらマシンを動かしてみると...見事に動いた。

次の日、分解したマシンを持ってマレシャムは友人の家を訪れた。
彼はそこでまたマシンを組み立てて、サリー1着分のアスーの工程を実演してみせた。
マシンを使ってみた友人からはとても評判がよく、これまでの手作業のアスーよりも品質が高いものが出来るということも分かった。

後になって、いくつかの部分を電化し、アスー・マシンは実用化された。


マレシャムはこのマシンを母親の名にちなんでラクシュミ・アスー・マシン(Lakshmi Asu Machine)と名付けた。


このイノベーションがもたらしたもの


アスー・マシンの影響は大きい。
ポチャンパリーの伝統サリー作りのキャパシティは飛躍的に上がった。
夫婦でひと月に作れるサリーの数は、従来の8着から12着に増えた。
品質も向上し、より精密で複雑なデザインが可能になった。

これまでアスーの工程を担当していた女性たちは、男性が独占してきた織りの工程に参加できるようになった。
家庭の中でアスーの作業から解放された娘たちが大学へ進学するケースも出てきている。